全国町村会

離島を除いて日本最少人口の村

高知県大川村長 和田 知士

我が大川村は、高知県の北部に位置し、四国のほぼ中央にある。平成22年の国勢調査では、人口411人の村となり、離島を除いては日本最少人口の村となった。

昭和30年代後半に国策として発表された四国総合開発という名の下、四国の水瓶として早明浦ダム建設計画が持ち上がり、昭和48年に完成という、 まるで水特法(水源地域対策特別措置法)を意識したかのような他に類を見ない早さの工事であった。時を同じくして社会情勢の変化、不採算性も重なり白滝鉱山の閉山があり、 昭和30年初期には人口4000人超であったものが、水没による移転もあって2000人となり、1000人となっていった。

私が役場に奉職した頃には750人の村となっていたため、当時の村長が公社を設立し、若者定住や産業の活性化を画策した。面積95kuの94%を森林が占め、その75%程度が人工林であるが、 長引く林業不振の脱却には至らなかった。

時代を先取りし、環境に優しい村づくりをするため、ペレットストーブの導入や製造施設の建設計画、小水力発電所の建設や地熱利用による椎茸栽培施設等を計画・実施したが、 国民も環境に関心が薄い時期であったため、成果を上げるには至らなかった。

その頃、今では普通に買って飲んでいる「玉緑茶」という緑茶飲料も試作したが軌道に乗ることは無かった。つくづく時代との調和が大事だと痛感しているが、強いリーダーシップを発揮し、 住民と一丸になって継続することが最重要だと思っている。

平成25年に産業を中心として、400人の人口を守る振興計画を樹立した。努力目標では無く、何が何でも実現したい数値目標である。

私が村長就任時に掲げたことは、産業を中心とした村づくりである。農業・畜産業・林業とも大変厳しい現状であるが、職場が無いわけでは無いと思っている。 若者には農畜林業の起業家になって貰いたい。

花卉栽培に熱心な若者も帰村して産地化を目指し頑張っているほか、高知県が開発した「土佐はちきん地鶏」は、80日〜90日で出荷する地鶏としては秀逸と好評を得、 生産が追いつかない現状である。飼育技術の更なる向上と生産者の拡大で、早期に10万羽体制を築き、将来的には20万羽体制へと事業展開していきたいと考えている。

また、大川黒牛についても生産の殆どがA4・A5ランククラスであるが、出荷頭数が30〜40頭と僅少であるため、増頭並びに有利販売をしていく必要がある。

平成の大合併と言われてから10年が過ぎたが、現在は道州制の議論へと向かっている。

インフラ整備にしても、地方分権・地域主権にしても、大都市圏での議論が主体で進み、国土の大半を形成している農山漁村が蔑ろにされているように感じてならない。

我が村では生き残りをかけて行財政改革に取り組んできたが、道州制を見据えての村づくりとなると一念発起、大胆な施策展開を考えなければならないようにも感じている。

前述したとおり、早明浦ダム建設によって清流吉野川を失ったが、村づくりには川が本当に必要だと感じている。

私が幼い頃には徳島県から鮎が遡上して、8月ともなると一尺を超える鮎を食したものだった。吉野川を中心としたコミュニティが醸成されていたようにも感じる。 関係機関とも連携して川を取り戻したいと考えている。

また、近い将来必ず発生し、甚大な被害が予想される南海地震への対策が急がれるところである。我が大川村の住居は殆どが崖地に隣接しており、転石の崩落や山津波が心配されるが、 危険回避をしようとすれば莫大な予算が必要となり、現実的な対応に苦慮しているところである。国・県の知恵を借りながら対応していきたいと考えている。

纏まらない話に終始したが、私が村長に就任してから1年半が過ぎた。

多くの職員が元同僚であり、政治的と言うよりも事務的になっているような気がしている。就任後の悪い点を反省し、離島を除いて日本最少人口の村を愛し、誇りに思い、 今後は大局的に村の舵取りをする必要があると思っている。

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