全国町村会

出会いの縁で結ばれた国際親善交流

秋田県町村会長 上小阿仁村長 小林孝市

本村の国際友好親善交流の始まりは、平成元年の村政施行100周年に臨み、記念事業の企画、立案と相まって、初の議員海外研修が発端であり、小生の在台生活5年間の出会いの縁で、台湾省屏東縣萬巒郷(へいとうけんばんらんごう)と姉妹郷村提携へと進展されたのだった。

始めに出会いの端緒を紹介します。

昭和18年3月、台湾屏東師範学校を卒業(衆議院議員山中貞則氏は台北第二師範卒で同期生)し、高雄州(現在の屏東縣)、四林国民小学校に赴任、5年生54人の担任となる。児童は校内で日本語以外の言葉は禁止の強制教育で皇民化をめざす。

校舎裏の職員宿舎で奇しくも、萬巒郷出身の●英祥先生と自炊生活を共にする。

その頃、太平洋戦争が日増しに激化し、昭和19年2月、台湾山砲隊の第5部隊に現役入隊、その後迫撃砲隊に転属し花蓮港へ、ついで現台北空港の桃園街の西部海岸の守備に従事する。米軍B29の空襲が頻繁となる。

突如、8月15日終戦となり現地除隊解散となる。

四林国民小学校は戦車隊が駐屯して戻れず、途方に暮れていたところ、同僚の●英祥先生の暖かい思いやりとご好意により居候の身となり、意気消沈の心境を乗り越え、厚い友情の有難さが一入身に染み感謝する。●先生宅は五溝水という集落にあり、当時厳父は軍属で広東省派遣で留守、母堂と姉妹、弟の5人家族で特に母堂からは家族同様、親身も及ばぬ世話をいただき、命の恩人として終生忘れることができない。その温情は尊い人生訓として、生きる灯の原点であり、出会いの尊さと奇縁の巡り合わせに感謝している。

昭和21年2月、基隆港よりリュックを背負い鹿児島港へ上陸。引き上げて以来、互いに消息が途絶え空白が続いていたところ、たまたま、萬巒郷の隣郷出身で秋田市内で医院を経営する細谷煥栄先生が帰省されるとの事で、●英祥先生の消息について伺うと、「●先生は29歳で2児を残して病気で早逝」とのこと、いつかは必ず再会できるものとの夢は叶えられず、世の非情に遣る瀬ない境地に陥る。

幸いにも、●先生の実弟の●必達氏が屏東師範卒で健在で日本語が流暢との情報をいただき、紹介にあずかり文通を交わす間柄となり、昭和56年7月に開催の屏東師範学校同窓会の際に●必達宅を訪問し、母堂、家族と再会することができた。

いよいよ、平成2年村議会議員一行が台湾を訪問、萬巒郷との姉妹郷村提携交渉で内諾を得るに至った。

翌年の平成3年10月3日、曾士忠萬巒郷長を団長に一行23名の友好親善団が来村され、姉妹都市提携調印式を終え歴史的な幕開けとなった。

両郷村が恒久の友好を樹立しその絆を深め合い、相互の繁栄をめざして世界の平和に寄与することを誓い合った協定書を交わして以来、相互訪問で交流を深め合っている。

常夏の国、台湾は過去に於いて長い間、世界諸国の侵略、植民地等の不安定な国情と歴史を経て今日に至り、特に独立後の50年の政治、経済、文化等を核とする国民の前向きな意欲と努力はめざましく、アジア新興工業国の中でも躍進と発展は抜群であり訪問の度に敬服の外ありません。

友好親善団は毎回、屏東縣政府、屏東師範学院、四林国民小学校、五溝国民小学校、萬巒中学校、萬巒郷公所(役場)等を訪問している。

特に台湾は良師興国のもと人材育成に最大限の配慮と教育優先の印象を深くし学ばせられる。言語、風俗、習慣等の違いや距離、時間、予算等の隘路を互いに打開し合い、息の長い交流活動を推進し相互親善交流の意義のレベルアップを図りつつ、人道に満ちあふれた国際交流にしたいものと念じている。

●=さんずいに余

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