全国町村会

故郷は風前の灯火「平成大合併推進に思う」

群馬県町村会長 板倉町長 針ヶ谷照夫

不景気風の吹き荒ぶ中で、昨年来怒濤の如く押し寄せてきた「市町村合併推進」の動きは、自治省(現総務省)が各都道府県知事に対して提出を求めていた「市町村合併推進要綱」を群馬県が4月9日に提出したことにより、47出揃った。

各都道府県から出された内容は必ずしも全てが国の求めていた内容と合致したものではなかったようであるが、「不承不承乍ら一応の帳尻を合わすことは出来た。」と言ったところである。

総務省は去る3月19日に第2の矢を放っている。各都道府県知事を本部長とする「合併推進本部の設置」である。既に市町村合併推進の為の手立ては合併特例法等の改正により、市となる要件の緩和、合併特別交付税措置、普通交付税額算定の特例(10年保障)、合併による議員定数特例・在任特例など中央主導の政策が矢継ぎ早に具体化されて来た。

国・都道府県・市町村が対等な立場に立ち、相互に協力仕合う関係としてスタートした地方分権一括法が施行されて1年余り、市町村、なかんずく町村と国・都道府県の関係は従来のものと大差はない。それはよく言われる「財源、権限」の問題以上に政策実施の流れが従来と変わらぬばかりでなく、町村議会の議員定数、政務調査費の導入、介護保険導入、合併推進など中央集権そのままに上意下達方式で行われているという実態が証明している。

特に市町村合併については、財政の窮状に由来していることは間違いないが、地方自治の理念をもう1度原点に還って咀嚼する余裕がほしいものである。

戦後、特に高度経済成長期以降、行政が住民サービスの供給源のように位置付けられ、「受益と負担」という原則を忘れたまま今日の累積赤字の山を築いて来たことが最大の原因であるにも拘わらず、「合併すれば行政サービスが充実する」との麗句をかざし、合併は時代の要請であるかのごとき誘導は、真の日本の未来に責任を負う者の行為ではない。

今日の日本の混迷は経済の低迷、政治の貧困のみならず「人心の荒廃」にある。

物は溢れ、生活は豊かになったが、心の安堵の場所がない。

高度経済成長を支えた多くの人々には、慣れない都会での生活や仕事が辛くとも心の拠り所「故郷」があった。それは人口1万人足らずの小さな町や村であった。そこは「隣近所が皆家族」といった心の触れ合う人々で満たされた場所であった筈である。

今、日本では「国家100年の大計」に苦悩している。明日の日本を担う子供たちの教育のことである。親の責任、教師の責任、社会の責任と責任論議は尽きないが、何故教育が「国家100年の大計」なのか。それは「人づくり」は親、教師の枠を越えて行うべきものだからに他ならない。

視点を変えれば、自治体の仕事はインフラ整備やサービス行政に優るとも劣らぬ「人づくり」という大任を負っているということでもある。

よき村民の住む村にあって、行政を担う者も当然それに相応しい人が求められる。

よき国民あって、国政を担う者は相応の品格と知性と精神を備える人が選ばれる。

「国家100年の大計」とは正に至言である。

公僕のなすべき仕事は国家社会にとって最も大事なことから逐次遂行することである。行政の最先端を担う市町村の任もまた然り。翻って人づくりの舞台としての妥当な自治体の規模はどの程度とすべきか。自治体の住人として、行政と連帯して住民の義務を認識し得る規模。町民から町長や議員の顔が見える距離、人口規模はどの位の妥当なのかと言った角度から議論されても良いのではないか。

「お金や無節操な自由が人を駄目にした」と言いつつも、我が国において発想の根底にあるものは「お金」である。国・地方を合わせて666兆円とも1,000兆円とも言われる負債の扱いが、今後の国家・地方行政を展開する上で決定的な隘路であるなら、何故それを前面に出して施策方針を説明しないのか。

何故、今まで派手な生活をする余裕などなかったのに、身分不相応に借金までして見栄を張って来てしまったのか。国民にも連帯責任を求めようと言うなら「国民にも責任がある。だから、こうする。」という指針を示さないのか。

「『市町村の合併の推進についての要綱』を踏まえた今後の取組(指針)」などという旧来慣れ親しんで来た、上意下達手法で行政体へ圧力をかけることよりも、国民が国家を構成する責任ある国民として、主権者として本気で合併の意義を見極め、国の未来を選択するための議論を喚起する材料を広く国民の前に示すべきではないか。

些か乱暴な言い方になるかも知れないが、住民発議や住民投票など民主主義の主題を高く掲げ合併推進の旗を振る様は、地方行政を担う者との疎通の欠如を露呈しているようでもあり、国家運営の混迷の深さを思わざるを得ない。

このような情況の下で「平成の大合併」は進められようとしている訳であるが、7万余の町村を1万5千余りに収斂した明治の大合併や、高度経済成長や増大する行政需要への対応に万全を期すべく9,500余の市町村を3,300余にした昭和の大合併の意義と対比し今行われようとしている合併は、根拠、目指すべき方向が曖昧である。

地方分権の受け皿強化、少子高齢化社会を担う為の必要性が合併推進の論拠であるが、住民としての義務を求めずして市町村の、そして国の未来は約束されるか。常々、全国町村会が懸念している「強制合併、誘導」への傾斜は強まるばかりである。

少なくとも、行政に効率性、民間並の競争原理を求める時代が到来するならば、日本という国は、長い歴史の中で培った「合理性」という物差しで計り切れない価値あるものを失うことになろう。そしてその時、「日本の故郷」も消えて無くなるに違いない。

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